量子人材の育成:量子優位性の時代に備えて、いま、何が必要か 

 

 

量子コンピューティングは、「重ね合わせ」「もつれ」「干渉」といった量子力学の原理を用いた新しい計算技術である。
 
 化学シミュレーション、金融計算、AI機械学習、特定の最適化問題のなかでも、従来のコンピュータでは解くことが困難とされてきた問題を、より速く効率的に解ける可能性をもったテクノロジーとして注目されている。

 今後、量子コンピュータの技術革新が進み、連携したシステムとして動作可能な量子ビットの数が増えれば、古典コンピュータの処理能力を凌駕する「量子優位性」の時代が2020年代には到来すると試算する専門家もおり、その可能性から世界の主要国が積極的に研究投資している。

 しかし高まる需要に対して、新たに見えてきた課題がある。それは量子研究や量子情報科学の分野で活躍できる人材の不足だ。

 
人材不足を指摘する米国の専門組織や専門家

 マサチューセッツ工科大学リンカーン研究所のWillian D. Oliver 教授はこう語る。
 
「量子科学者やエンジニアと呼ばれる人たちの多くは、基本的に物理学者やエンジニアとして教育を受けてきた人たちです。しかしある時点で量子に興味をもち、エンジニアは物理学を学び、物理学者は工学を学んでいます。新しい技術が主流になる前は、その特定の技術を対象とした学問分野があるとは限りません。それが現在の量子技術です。そのため、量子人材としてすぐさま活躍できるスキルをもつ人たちは、まだ世の中に十分いるわけではありません」(MIT News: The talent shortage in quantum computing )

 では、来たるべき量子優位性の時代に向けて、どのようなアプローチで人材を育成していくのが有効なのか。明確な答えを出すのはまだ時期尚早だが、本稿では世界に先駆けて量子コンピュータを無料公開したIBMの量子人材育成への取り組みを紹介する。

 
オープンアクセスによる教育機会の拡大

 量子人材を育成するための機会拡大には、誰もが学べる環境や学習教材が充実していることが重要である。
 
 IBMが世界に先駆けて自社の量子システムをクラウド上に公開したのも、オープンイノベーションの推進を図るだけでなく、誰もが無料で簡単に本物の量子コンピュータにアクセスできる環境を整えることで、将来の量子人材育成を促すことも狙いの1つとなっている。

 2016年5月の公開後、IBMの量子コンピュータには世界中から研究者、開発者、一般のユーザーがアクセスして、さまざまな実験を繰り返している。ユーザーの需要に応えるために、その後もIBMは量子システムを追加し、現在、世界で最も多くの台数(22台)の量子コンピュータをクラウド上で提供している。
 
 オープンソースの量子コンピュータ用開発フレームワークであるQiskitは43万回以上ダウンロードされ(2020年8月現在)、世界25万人以上のユーザーが登録している。
 
 また、量子計算を実行するためのプログラムを組むことで構築される量子回路は3000億回以上実行されており、IBMの量子コンピュータを使った第三者による実験結果が掲載された論文は250本以上となっている。

<世界で唯一無償公開されているIBMの量子コンピュータ>

・登録者数25万人以上
・回路の実行回数3000億回以上
・論文250本以上 (IBMの量子コンピュータを使った第三者による実験結果)
・オープンソースの量子コンピュータ用開発フレームワークのなかで、IBMのQiskitはGitHub上で最も使われているソフトウェア(2020年8月現在43万回以上ダウンロードされている)
・世界で最も多くの台数(22台)の量子コンピュータをクラウド上でユーザーに提供している(うち11システムは無償公開)

 

オープン・エデュケーション

 人材育成には、オープンアクセスにより実機に触れる機会を提供するだけでなく、充実した教材が重要である。
 
 2019年から公開されているオンラインのQiskit Textbookは、それ自体もまたオープンソース化され、世界中の人がコンテンツに貢献できるようになっている。
 
 紙の教科書とは異なり、Qiskitの新しいリリースに伴う変更を反映できたり、特定分野のユースケースに基づくチュートリアルも日々追加されたりと、常に内容を充実させている。

 現在、世界55以上の教育機関がQiskit Textbookを活用しながら、量子システムにアクセスした授業を展開している。またQiskit Textbookを使った輪読会なども、世界の量子コミュニティで活発に行われている。 

 このほか、Qiskitを使ったコーディングの実演を交えて、量子コンピューティングと量子計算に関する重要な概念を紹介する動画シリーズが人気である。同コンテンツは、Qiskit YouTubeチャネルで公開されている。

 最近では、将来の量子ソフトウェア開発者を対象としたQiskit Global Summer Schoolという取り組みもある(前提条件は2つの行列を乗算できることと、基礎的なPythonプログラミングスキルがあること)。
 
 世界中から5000名以上の学生が応募し、大学の1学期分の授業量(27講義分)に相当する量子コンピューティングの講義と量子プログラミングをハンズオンで学んだ。これらのコンテンツをIBMは無償でオンライン公開している。

 

Qiskit Global Summer School オンライン授業の画面(1)

 

Qiskit Global Summer School オンライン授業の画面(2)

 

 

コミュニティを通じた人材育成

 IBMではこのほか、多くの若者が量子コンピューティングに親しみ、コミュニティのなかで育まれていくための取り組みとして、量子コンピュータを使ったさまざまな催しも積極的に開催している。
 
 2019年には、Qiskit Campと呼ばれる合宿形式のハッカソンイベントが世界4都市で開催された。同年11月には日本の富士山を望む宿泊施設に世界16カ国から学生が集まり、量子コンピュータの特性を活かしたアプリケーションを実装した。

日本でのQiskit Camp(1)
日本でのQiskit Camp(2)

 

Qiskit Campの開催地

2019年2月   Qiskit Camp 2019(米国)
2019年9月   Qiskit Camp Europe(スイス)
2019年11月 Qiskit Camp Asia(日本)
2019年12月 Qiskit Camp Africa(南アフリカ)

 2019年9月には、初のオンライン型競技プログラミングコンテスト「IBM Quantum Challenge」が日本発でグローバルに開催された。
 
 これには、世界中から800名近くが参加した。いかに少ない量子ゲート数で正解に辿りつけるかを競い合う最終問題では、出題者の予想を上回る優れた解法を編み出す参加者も現れた。
 
 量子力学と量子計算のバックグラウンドをもたなくても、チュートリアルと組み合わせたコンテストの開催を通じて、短時間で量子計算に関するスキルを身につけられると世界中に知らしめたのである(次回のIBM Quantum Challenge は、2020年11月にIBM Quantum Experience 上で開催予定)。

 どんなことであっても、少しでも上手くなることで、その分野の勉強はもっと楽しくなり、さらに学ぶ意欲が増していくものである。
 
 コミュニティとは、量子コンピューティングへの興味と情熱を共有できる仲間たちに出会い、切磋琢磨しながら、自らの成長を実感できる場であり、その成長が再びコミュニティに還元されていくエコシステムだといえる。
 
 またコミュニティは、誰もが量子コンピューティングの研究開発の第一線で活躍する専門家と直接交流できる場でもある。たとえば学生の場合は進路を相談したり、インターンシップの機会を得たりすることで、産業界が求めるスキルが何かを理解し、具体的な就労機会を見出していくなどの例も出ている。

 

日本IBM「TEC-J 量子コンピュータ勉強会」

 量子コンピューティングの応用分野が発展していくには、社会課題や業界知識のある企業で働く人材が量子コンピューティング技術に精通していくことも重要である。
 
 Willian D. Oliver 教授は先のMIT News のインタビュー記事のなかで、人材不足を補うもう1つの重要なアプローチについてこう語る。

「すでに労働力となっているエンジニアや物理学のバックグラウンドをもつ人を教育してピボットしなければなりません。今日の産業界や政府には膨大な人材プールがあります」
 
 こうした企業内に潜在する量子人材候補育成の具体的な取り組み例として、日本IBMでは2017年から部門横断型技術コミュニティ「TEC-J」のワーキング・グループとして、「TEC-J 量子コンピュータ勉強会」を起ち上げた。現在、延べ178名のメンバーが精力的に活動している。
 
 研究員、コンサルタント、ITエンジニアなど社内のほぼすべての部門からさまざまなバックグラウンドをもつエンジニアが集まり、量子計算の基礎から応用分野に至るまで、多様なテーマに関する知識とスキルの研鑽を図っている。

TEC-J 勉強会の活動

 

<TEC-J量子コンピューティング勉強会の主な活動>

◎月例会
量子コンピュータのハードウェア、ソフトウェア、技術動向や論文解説など幅広いトピックをカバー

◎Textbook日本語解説
オープンソースのQiskit Textbookの日本語訳を翻訳者が持ち回りで解説するシリーズhttps://youtu.be/01JZfji-Mbw

◎量子機械学習分科会
古典の機械学習の基礎から量子版の機械学習へと発展的に学び、基本的なユースケースまで実装可能になることを目標に活動

◎ドキュメンテーション翻訳
Qiskit のドキュメンテーションの日本語訳を推進し、グローバルのローカライゼーションの取り組みに貢献
https://github.com/qiskit-community/qiskit-translations

◎外向け勉強会の開催
特定の量子アルゴリズムの解説とQiskitでの実装をハンズオンで紹介するシリーズ
YouTube Quantum Tokyoチャネル
https://www.youtube.com/channel/UCT_lkXOYYBIbfk8CnvQ6Heg/featured
https://quantum-tokyo.connpass.com/

◎メンタリング/コーチング
各種量子イベント(ハッカソン、セミナー、研修、サマースクール)におけるメンター

◎初心者輪読会
初学者向けの量子コンピューティング入門書の輪読会

 

YouTuberデビューする社会人たち

 近年、TEC-J量子コンピュータ勉強会の活動は社内にとどまらず、社外にも広がっている。2019年からは仕事帰りの社会人向けに量子コンピューティング入門のセミナー、量子計算の基礎について学べる「エンタングリオン」というボードゲームを使ったゲーム大会、一般のPython開発者向けの量子プログラミングのセミナーなども開催している。いずれにも、量子コンピューティングに興味をもつ社会人技術者が数多く集まった。

 2020年3月以降、F2Fでのセミナーを開催できなくなってからは、TEC-Jでは勉強会やイベントを完全にオンライン化して活動を始めている。
 
 休校が続き、家に閉じこもりがちな生活を送る中高生向けの量子コンピュータ入門のオンライン授業をライブ配信したり、特定の量子アルゴリズムの解説とQiskitによる実装を行うシリーズ、Qiskit Textbookの各章を順番に翻訳して日本語で解説する輪読会なども隔週で開催している。
 
 これらすべてのコンテンツは、YouTubeのQuantum Tokyoと呼ばれるチャネルで一般公開している。

Quantum TokyoのチャネルではTEC-Jのメンバーが講義を担当

 

認定資格制度

 自己研鑽の結果とコミュニティへの貢献がきちんと評価されて、スキル認定されていくことも学習者と貢献者を増やすうえで有効である。
 
 IBMの場合、Qiskitに関する知識とスキルを有すると証明する認定資格Qiskit Advocateプログラム(https://qiskit.org/advocates)を2019年から開始した。
 
 Qiskit全般の知識を問われる試験に合格すること、オープンソースのQiskitコミュニティへの貢献実績(GitHubでのIssueやPRの作成、ブログ記事執筆、勉強会での登壇、チュートリアルの作成、ドキュメントの翻訳など)を評価し、面談を経て認定される。
 
 現在、世界で約200名、日本には12名のQiskit Advocateがいる。Qiskit Advocateは量子コミュニティに関する情報をいち早く受け取れるほか、新規プロジェクトの立ち上げ、グローバルに展開される量子関連のイベントに優先的に招待されるなどのメリットがある。

 

今後の動向

 今後、国を挙げた量子人材育成への取り組みもさらに強化されていくと予想される。量子人材の不足という課題を受けて、アメリカ国立科学財団(NSF: National Science Foundation)は、全国で学習者や教育者を支援する「Q2Work Program」を創設。量子情報科学教育の取り組みに100万ドル近くを提供し、下記のような取り組みを行う方針を示した。

① 「高校における量子コンピューティングへの分野横断的アプローチ」
教員向けサマースクール等

② 「QIS教育に向けた中等教師の準備」
量子の概念を生徒に理解等させるコンテンツ提供・支援等

③ 「未来の計算集約型産業にK-12学習者を備えさせる教育革新の促進」
QISなどに頼る産業の労働力の準備に関する提案募集

 日本でも、NICTの量子ICT人材育成事業が2020年からスタートしており、高専、大学生、修正・博士課程在学者等を対象に、量子ICT分野の人材育成を始めようとしている。
 
 また、文部科学省が推進するQ-LEAPなどのプログラムでも、新たに人材育成プログラムが設置された。ただし、本格的な取り組みはこれからである。

 

 今後は国の方針も後押しして、産官学が連携し、量子人材の育成がさらに進んでいくと期待される。しかしどのような取り組みでも、人材育成には垣根を越えてつながることのできるコミュニティの存在が、極めて重要な役割を果たしていくことになるだろう。

 


著者

小林 有里氏

日本アイ・ビー・エム株式会社
東京基礎研究所 量子コンピューティング

IBMの量子コンピュータ上で実行可能なプログラムを書くためのPythonベースのオープンソース・ソフトウェア開発ツール「Qiskit」の開発者向けコミュニティを担当。量子コンピュータに関する研修やセミナー、大学での授業展開をはじめ、量子コンピュータを使ったプログラミングコンテスト、ハッカソンの主催などを通じて、量子人材の育成に注力。

 

・・・・・
沼田 祈史氏

日本アイ・ビー・エム株式会社
東京基礎研究所 量子コンピューティング

IBM入社後、ハードウェア製品の開発に従事。その後、大学連携などを担当し、現在はQiskit Advocateとして、コミュニティ活動を中心に量子コンピュータを広めるべく活動中。

 

 

小林 有里氏、沼田祈史氏は日本IBMのテクニカル・コミュニティ「TEC-J(Technical Experts Council of Japan)」のメンバーです。

当サイトでは、TEC-Jメンバーによる技術解説・コラムを継続的に掲載していきます。ご期待ください! 

TEC-J技術記事https://www.imagazine.co.jp/tec-j/

[i Magazine・IS magazine ]

・・・・・・・・

関連記事

特集|量子コンピューティング 慶応Hub始動!
・IBM Q HUB@慶応大学 1年の総括(10月26日公開)

 

More Posts