MENU

Interview|沖縄体験をきっかけに 音楽のフィールドを世界へ広げる ~宮沢 和史氏(ミュージシャン)

心を打つ名曲「島唄」が発表されてから27年。その作詞・作曲者であるミュージシャンの宮沢和史氏は、今も沖縄と深い関わりをもっている。「沖縄の扉を開けたときに、未知のものから刺激を受ける喜びを知った」と話す宮沢氏に、音楽、沖縄、そして今をうかがった。

 

宮沢 和史氏

ミュージシャン)
沖縄芸術大学 非常勤講師

 

 

「ひゃくまんつぶの涙」での
不思議な体験

i Magazine(以下、i Mag) 宮沢さんの沖縄との出会いはどのようなきっかけだったのですか。

宮沢 僕は1989年にバンドでプロデビューしたのですが、バンドというスタイルがそもそも西洋のものなので、何かの真似をしているのではないかという自問自答が、デビューの頃からありました。

 プロデビューというのはアマチュア時代に作った曲でデビューするので、いわばアマチュアの延長です。そしてそのストックが尽きた頃に、プロとしての本当のデビューがあるのですが、2枚目のアルバムを作っているときに、自分のルーツは何か、という命題がよみがえってきたのです。

 ところが周りを見回しても、自分のルーツを感じさせるものなど何もありません。僕は経済成長期に生まれてバブル期に育った世代です。古いものは変えていこう、捨てていこうという時代ですね。

 そのときにふと、沖縄が気になり始めたのです。戦争であれだけ壮絶な経験をしたのに、今もなお伝統のなかで暮らし生きるという世界が残っているらしい、と。おそらく僕らの親の世代も、その前の世代も、伝統とともに生きるという生き方をしてきたのだと思うのです。

i Mag それからどうしたのですか。

宮沢 それで3枚目のアルバム(JAPANESKA)は日本を題材にし、日本の音楽とロックとの融合にしようと考えました。和太鼓や三味線を取り入れてあれこれ試行錯誤を重ねたのですが、そのなかで1曲、琉球音階を使った曲ができました。ただしそんな音階の曲は作ったことがなかったので歌詞が出てこなくて、そのまま保留にしていたのです。

 あるとき、CDジャケットの撮影のために1泊の予定で沖縄に行きました。そうしたら移動のバスのなかで、保留にしていた歌詞をどんどん思いつくのです。当時僕は沖縄戦のことをほとんど知らなかったのですが、それにもかかわらず「ひゃくまんつぶの涙」という戦争を感じさせる曲ができました。この経験は、今思い返しても不思議です。運命めいたものさえ感じるのです。

i Mag 「島唄」も、沖縄を訪れたときにできた歌だそうですね。

宮沢 戦争のつめ跡を回ってみようと、ふらっと「ひめゆり平和祈念資料館」に立ち寄ったときのことです。ひめゆり(部隊)の生き残りの方がマンツーマンで説明してくれたのですが、1つ1つの展示にものすごくショックを受けました。それと同時に、強い怒りがこみ上げてきたのです。それは、あれだけの犠牲を出したことに対して、その責任者に対して、それを知らなかった自分に対して、そんな大事なことを教えてくれなかった教育に対して…。それで、その説明をしてくれた方に今度会ったら聴いてもらえるような音楽を作ってみよう、と思ったのです。ショックや怒りに対する僕なりの回答を、音楽にしてみようと思ったのですね。それが「島唄」です。

i Mag 宮沢さんはその後、活動の舞台を世界へ広げていかれます。これはどういう思いからですか。

宮沢 僕はどちらかと言うと人見知りのところがあって、子どもの頃は人と会うのさえ億劫でした。しかし沖縄の扉を開けたときに、未知のものから刺激を受ける喜びというか、自分が無知であることを知る喜びを知ったのです。ルーツを探ることも大事ですが、それとは逆に、未知のものと対峙しながら音楽を生み出していくほうが自分らしいのではないかと、沖縄をきっかけに思うようになったのです。それからです、外へ外へと出ていくようになったのは。

i Mag  録音・編集・監修を担当された「唄方 〜沖縄/宮古/八重山 民謡大全集Ⅰ」と「くるちの杜100年プロジェクトin読谷」は、東日本大震災をきっかけに始められたとか。

宮沢 あの津波の映像を見て、人生は数分、数秒で終わってしまうこともあることを、誰もが痛感したと思います。亡くなられた方は、2500人以上の行方不明者を含めて1万8000人以上になります。その一人一人に夢があり、やりたいことがあったはずですが、それが一瞬にして消えしまうのです。自分もいつそうなるかわからないという思いになったときに、以前から考えてきたことは今すぐに始めようと思ってスタートしたのが、2つのプロジェクトです。

i Mag 「唄方」には最近の歌も収めていますね。

宮沢 民謡と言うと、過去の歌、古い歌というイメージがあるかもしれませんが、沖縄の民謡は今歌われ、今作り出されているのも民謡になっていきます。おそらく僕の「島唄」も、そのうち民謡に分類されるでしょう。それくらい沖縄の民謡は今と密接なのです。

 沖縄には「工工四(くんくんしー)」という独特の楽譜があって、それがあれば何百年後でも演奏できます。しかし名人の指づかいや息づかいは音でなければ残せませんし、そもそも沖縄の民謡は、歌い手が自分流に曲をアレンジしたり、歌詞を変えたり、三線も好きなように奏法を変えられる自由があります。そこも魅力の1つですが、2000年代の初めにはこんなふうに歌い演奏していたというのを残しておいたほうがいいと思って、250人を超える唄者の方に「大事にしている歌、残しておきたい曲を1曲弾き語りしてください」とお願いして回りました。2012年から2016年まで約4年をかけて269曲を録音し、そのなかの245曲を収めたのが「唄方」です。音の教科書を作りたかったので、古い歌も最近の歌も分け隔てなく収録しています。

i Mag 「くるちの杜」プロジェクトはどんなきっかけですか。

宮沢 「島唄」を発表した頃は、民謡や古典音楽は年配の人がやるものという雰囲気がありました。それが「島唄」のヒット以降、多くの人が三線を手にするようになりましたが、あるとき三線職人の方と飲んでいたら、「『島唄』がヒットしてから沖縄県産の黒木(くるち:三線の棹の素材である琉球黒檀)が確保できなくなって輸入に頼らざるを得なくなった」という話を聞かされたのです。「島唄」の発表から10年以上たっていましたが、そのことにまったく気がつかなかったのです。これはいかん、僕にも責任があると思って、土地を購入して植樹することも考えましたが、黒木は植えてから棹として使えるようになるまでに100年から200年はかかります。それだと、自分一人でやるには限界がありますから、県に相談に行ったのです。すると、読谷村で3年前に黒木の植樹プロジェクトがあって、終了後は誰もタッチしていない植林があるという。「くるちの杜」は、それを引き継ぐ形でスタートしたプロジェクトです(2012年)。毎年少しずつ植樹もして、今は3000本くらいになっています。

 

大病後、肩の力が抜け
「時を泳げ 魚の如く」へ

i Mag 目下、「時を泳げ 魚の如く」(コンサート)で全国を回っておられますが、2018年11月にスタートしたときは2年10カ月ぶりだったそうですね。

宮沢 僕は10年以上前から首のヘルニアを患っていて、2016年初めに、これはもうだめだというところまで悪化し、すべての活動を停止しました。それからリハビリを続けて少しずつよくなり、たまにミュージシャン仲間などから声をかけてもらってコンサートに出るうちに、また歌えるかもしれないと思い始めたのです。

 若い頃は、実力以上に自分をかっこよく見せたいとか、強く見せたいという気持ちもありましたが、一度引退する気持ちで休んでみたらそういう欲はまったくなくなり、歌手・宮沢和史という虚像とは関係のない、素直な言葉が出てくるようになりました。今歌う「島唄」は、昔とは違う「島唄」になっていると思います。

宮沢 和史氏 1966年山梨県甲府市生まれ。1989年にTHE BOOMのボーカリストとしてプロデビュー。2014年の解散以降はソロ活動を展開。これまでに多数のアルバムを発表しているほか、多くのミュージシャンに楽曲を提供。著作も多数あり、現在、『クーリエ・ジャポン』(Web)、沖縄の地域誌『モモト』、月刊『つり人』、月刊『Latina』で連載コラムをもつ。2019年5月に約3年振りのソロアルバム「留まらざること 川の如く」を発売。現在、「宮沢和史 詩の朗読と歌によるコンサートツアー2020 ”未来飛行士”」で全国を縦断中。
オフィシャルサイト http://www.miyazawa-kazufumi.jp

[i Magazine 2019 Summer(2019年5月)掲載]

新着