Home インタビュー-座談会 世界を主客一体として捉える日本語の感性をどのようにテクノロジーに活かすか ~連載|ロゴスとフィシスの旅◎第1回

世界を主客一体として捉える日本語の感性をどのようにテクノロジーに活かすか ~連載|ロゴスとフィシスの旅◎第1回

by kusui

 

「日本の元気の素」を発見する旅へ

 皆さん、こんにちは。アイ・ラーニングの片岡久です。この4月号から新たな装いで、お目にかかることになりました。どうぞよろしくお願いいたします。

 今回は「ロゴスとフィシスの旅」と題して、「日本の元気」を探求したいと考えています。理性とか論理を表す「ロゴス」と、自然や本質を意味する「フィシス」という原理を軸足にして、現在の課題を振り返りながら、過去から学び、未来を想像してみます。

 さて、技術立国を標榜し、IT投資額は米国に次いで第2位、カイゼンやリーン生産を得意とするはずの日本が、労働生産性はこのところずっと主要先進国の中で最低(2014年)、ICT国際競争力も21位(2010年)などと、けっしてハイテク国家とは言えなくなっています。また起業活動率(18歳から64歳の人口100人のうち、起業準備、起業後3.5年未満の経営に携わっている人数)も先進国中最低で、世界に向けて日本発のビジネス・モデルを期待するにはかなり心配な状態が続いています。

 一方で米国は超大国としての影響力は低下したものの、GDPは相変わらず首位を維持し、労働生産性は日本の2倍、起業活動率も日本の3倍近くの世界トップです。ITを基盤にしたビジネス・モデルも、ほとんどが米国発のものばかりです。

 何が日米の差を作り出しているのか、どうしたらこのような状態を変革できるのか、という疑問が解ければ、元気な日本を作ることが可能なはずです。

 ということで、これからご一緒に「日本の元気の素」を発見する旅に出かけてみたいと思います。この旅は目的地を探すものなので、あちこち寄り道をすることになりますが、「日本の元気」「情報技術」「学習」という標識を意識しながら進みたいと思います。

 世の中の複雑さが増すにつれて、問題の所在や真の課題がわかりにくくなります。また変化のスピードが速くなると、問題を解く前に次の問題が生まれます。世界中の人々がつながっていることから、さらに複雑さが増します。そんなわかりにくい時代に原点探求の旅に出るのであれば、すでにいったん事実となっている過去に遡って、さまざまな変化を起こした元素についての仮説を問うのが上策と思われます。まずは言語構造の歴史です。

 

 

語順によって生まれる思考と態度

 先日ある会合で聞いた話によると、ほとんどの言語の語順は、生まれた時には主語(S)、目的語(O)、動詞(V)の並びだったそうです。歴史が進むに従って、英語をはじめとする西洋の言葉は、主語(S)の次に動詞(V)が来て、そのあとに目的語(O)という並びに変わっていったとのことです(図表1)。

 

 

 一方で日本語は、昔からの並びのままで現在に至っています。言語の語順のこの違いは、世界の見方や価値観にかなり関係しているように思います。たとえば英語などの言語はSとOの間にVが入る形に変化したことで、主語である自分と対象物である物や自然を、はっきり異なるものとして認識することになりました。主体と客体を別のものとして考える、いわゆる主客二元論という見方に変わっていきます。

 これによって2つの特徴が生まれます。ひとつは、「主体」としての人間の権利や自己の確立を第一に考える個人主義という価値観が進んでいくこと、もうひとつは客体である物や自然の原理を主観と切り離して観察する態度です。これによって対象物の理解の仕方は主観によって左右されない客観性を確保することができ、その結果として普遍性の追究や、科学的に証明された真理というものが存在することになります。またそのツールとしての分析手法や論理的な思考法が、真理発見の道具として重視され発展していったわけです。

 一方で語順の変わらなかった日本語では、S、O、Vとなって主語の次に目的語が並びます。主体と客体を分離するのではなく自分と対象との境界が曖昧になりがちです。茶道で「賓主互換」という言葉がありますが、亭主が客をもてなすのと同じく、客も亭主のもてなしに応えることによって亭主をもてなすということです。そこに主客一体となった場が生まれるわけです。

 そうなると客体である自然や物は観察の対象物であるだけでなく、観察する自分を観察者にしている存在として対等の立場になります。「花を見る」ことは「花に見られる」のです。「主体」が第一になることはむずかしく、主体と客体が一緒にまずあって、そのうえで自己があるということになります。対象物も主体から切り離されないので、主観を交えない客観的なロジックの展開が困難です。世界の理解の仕方は観察というより、むしろ対象との関係を大切にして、主体と対象が心を通わせるという、情緒的な思考の仕方になります。この方法だと主観を排除した客観的な理解の仕方は本当の認識ではなくなってしまいます。西洋流の汎用的な法則の発見とか誰もが再現可能な定理の追究は、根本の価値ある真理の探究ではなく、世の中を便利にする道具の発見にすぎないという考え方になります(図表2)。

 

 

精神を求める日本、実証を求める西洋

 ちょっと横道にそれますが、技術を和語にすると「わざ」と「すべ」です。「わざ」は神技(かみわざ)、立ち技(たちわざ)、早技(はやわざ)という使われ方、「すべ」は「なす術がない」などの表現で、どちらも手段、やり方、方法を表します。永遠の真理である「道」を探求する手段が「技術」であり、たとえば剣の「道」である剣道を究める手段が剣術ということです。

 日本ではものづくりにおいても、芸事においても、果ては人生の処し方においても「道」を探求します。そこで最も重要なのは志とか心身一如と言われる精神なので、技術だけを磨いたり、技だけを巧みにしようとすると、道を踏み外してしまうことになります。宮本武蔵は剣の専門技術者であるだけでなく、精神修養の証として書画の道に優れているから尊敬され、刀剣を作る刀工はそこに魂を込めて作るがゆえに一子相伝の宗匠となります。ただ技術だけで作られた、切断という機能だけの刀は価値が低いのです。

 西洋でも、たとえば天文学の歴史の中で、当初は哲学や論理学という合理性にもとづく理論中心の世界理解がアリストテレスをはじめとする学者によって進められ、それは神学を頂点とするスコラ哲学を形成していました。しかし、16世紀には職人による測量によって、さまざまな不具合が発見されていきます。西欧の科学が進歩するのは、身分が低く高等教育を受けていない職人の技術を認め、学者と職人が交流することで測量結果や機械による観察を理論に取り入れたためです。まさに科学ルネサンスが開花し、天と地がひっくり返ったわけです。技術の陶冶に精神を求める日本と、技術の論理に実証を求める西洋の方法が、それぞれの道を歩き始めます。

 

 

論理よりも情緒や美意識が重要に

 さて話を戻して言語の変化ですが、単に語順の違いにすぎないと思っていた主語、動詞、目的語の並びが、主客二元論対主客一体論という世界観の違いとなって表れてきました。それが西洋における論理的・客観的な思考方法と、日本における情緒や思いやりによる関係性を基礎とした思考方法としてそれぞれ異なる文明・文化を作り上げてきたことがわかります。さらに西洋では学者と職人、合理的な理論知と実証的な経験知という2つの知の融合も、語順の違いの先の枝分かれを助長しているようです。

 このように考えてみると、テクノロジーの時代、科学の時代をリードする思考の道具としての日本語は、英語などに比べると不利なように思えますが、実際のところどうなのでしょうか。

「私の数学は情緒を数学という形にしたものです」

 数学者で世界的な業績を残した岡潔の言葉です。彼と小林秀雄との対談にこんな一節があります。

 

岡 数学は有る意味では自然をクリエイトするものの立場に立っているわけです。クリエイトされた自然を解釈する立場には立っていないのです。

小林 それがあなたのおっしゃる種をまくということですか。

岡 そうです。ないところにできていく。

小林 そうですか。そうすると詩に似ていますな。

岡 似ているのですよ。情緒の中にあるから出てくるのには違いないが、まだ形に現れていなかったものを形にするのを発見として認めているわけです。だから森羅万象は数学者によって作られているのです。

 

 また、日本で初めてノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹は、理論物理学についてこのように語っています。

 専門の物理学でも、ある法則なり理論体系なりをよろしいと納得するときは、そこにはなにか ‘美しいもの’ を感じてるわけです。口ではいえんけれども、そういう感じをともなっている。そこで科学では好きもきらいもないとはいうけれども、実は心の奥の方では好ききらいにつながっている。ある種の美意識や好悪感がある。そもそも、そういうものを強くもっている人間が、理論物理学というような学問をやるわけですね。

 幼い頃から漢詩を作ったり中国の古典を学んだ湯川秀樹は、素粒子のことを考えている時に、よく「荘子」にある渾沌の話を思い出したそうです。数十種類の素粒子の元になるもので、今は形が見えないものがあるはずだとの思いが、この不条理で意味がわからない話を連想させ、その連想があらたな中間子というものの存在を予言させたのかもしれません。

 この岡潔や湯川秀樹の言葉を読むと、大事なヒントが隠されている気がします。

 最近活躍しているチームラボの猪子寿之さんの「デジタル化した世界では、ロジカルなものはすぐにコピーされるので価値が低い。むしろ共感とか感動などを引き出す、アートが重要になります」という発言や、スティーブ・ジョブズやラリー・エリソンなど米国で成功したベンチャー企業の多くのCEOが日本の文化や価値観にほれ込んで、別荘を作ったり数十億円の庭を買ったりという現象を見ると、世界を主客一体として捉える日本語の感性をどうやってテクノロジーに活かすかをもっと真剣に考えてみたくなります。

 システムが単に機能を提供するだけでなく、ユーザーに対して豊かな表現力をもち、美しさや感動が求められている時代には、論理より情緒や美意識を優先する日本語のほうが、これからのデジタル社会に貢献する人財をつくるのに適しているようにも感じます。次回はそれを踏まえて、テクノロジーとアートの旅をしてみたいと思います。

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●参考文献

『世界の見方の転換』(1・2・3の3部作)山本義隆著、みすず書房 |本の情報ページへ
『人間の建設』小林秀雄・岡潔著、新潮文庫 |本の情報ページへ
『人間にとって科学とは何か』湯川秀樹・梅棹忠夫著、中公新書 |本の情報ページへ

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著者|片岡 久氏

株式会社アイ・ラーニング 
アイ・ラーニングラボ担当

1952年、広島県生まれ。1976年日本IBM入社後、製造システム事業部営業部長、本社宣伝部長、公共渉外部長などを経て、2009年に日本アイ・ビー・エム人財ソリューション代表取締役社長。2013年アイ・ラーニング代表取締役社長、2018年より同社アイ・ラーニングラボ担当。ATD(Associationfor Talent Development)インターナショナルネットワークジャパン アドバイザー、IT人材育成協会(ITHRD)副会長、全日本能率連盟MI制度委員会委員を務める。

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ロゴスとフィシスの旅 目次

第1回 世界を主客一体として捉える日本語の感性をどのようにテクノロジーに活かすか
第2回 「Warm Tech」と「クリーン&ヘルス」という日本流技術の使い方はどこから生まれるか
第3回 デジタル社会では、組織・人と主体的に関わり合うエンゲージメントが求められる
第4回 技術革新と心と身体と環境の関係(7月27日掲載予定)
第5回 忙しさの理由を知り、「集中力」を取り戻す(7月27日掲載予定)
第6回 自分が自然(フィシス) であることをとおして、世界の捉え方を見直す(8月3日掲載予定)
第7回 生まれてきた偶然を、必然の人生に変えて生きるために(8月3日掲載予定)
第8回 人生100 年時代 学び続け、変わり続け、よりよく生きる(8月10日掲載予定)
第9回 IoTやAIがもたらすデジタル革命を第2の認知革命とするために(8月10日掲載予定)
第10回 デジタル化による激しい変化を乗り切る源泉をアトランタへの旅で体感(8月10日掲載予定)
第11回 「働き方改革」に、仕事本来の意味を取り戻す「生き方改革」の意味が熱く込められている(8月17日掲載予定)
第12回 イノベーションのアイデアを引き出すために重要なこと(8月17日掲載予定)
第13回 アテンションが奪われる今こそ、内省と探求の旅へ

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